河のほとりで
ワシントン州オリンピック半島には世界最大級の温帯雨林が広がっていて、そこにはベトナム戦争からの帰還兵が住み着いている
帰還兵達は皆PTSDに悩まされている
同じ温帯雨林にいるのに彼らはコミュニティを作らない、話すこともしない、それぞれが抱える過去やトラウマはとても深く、それは他人とは共有できるものではないからだ
夜になると他の誰かが明かりを点ける
森の奥から届いたその光を見て、ああ、同じように苦しい誰かがそこで今日も生きているんだと思う
その時に他の誰かと心でつながることができたと実感する
相手と過去やトラウマを語りあわずとも、存在を確認しあう、それだけで自分は孤独ではないと思えるし、癒されるとのこと
ただ傍らに存在している、そういう静かなつながりもしみじみしていいと思うがなあ
あ~あ~ 川の流れのように~♪
おしっこの神様 あなたでしょうか
今日、近くの緑地公園でインドネシアのフェスタが開催されていた。
そこで豆をミルで挽き、コーヒーを淹れる体験をした。
そこの店主のおばちゃんがどうやらインドネシアの方のようで、たどたどしい日本語で対応してくれた。
そこでいつもの悪い癖が出てしまった…
無意識的に簡単で優しくした日本語を使ってしまった。
おばちゃんはなんと阪大の大学院生であった。日本語で論文を書いていたり、日本語の資料を扱っていたりして、かなり高度な学術用語を理解しているはずである。
普段通りの話し方で話せばよかったのだ。能力ある人に対して子供じみた話し方をしたことに対して深く恥じ入った。
私は外国人に対して簡単な話し方を使ってしまう癖がある。
この話し方のことをフォリナートークと言うんだけど…
フォリナートークとは、母語話者が非母語話者に対して使用する言語の変種である。具体的に言うと、使う語彙を簡単なものに制限したり、難解な慣用句を使わないようにしたり、短くて簡単な文にしたり、ゆっくり話したり、同じ内容を繰り返したりする話し方のこと。
日本在住の非日本語母語話者を対象にした情報の掲示の際に使われる、「かんたんな日本語」をイメージしてもらえば良い。(厳密には同じではない。)
確かに日本に来て日が浅い非日本語母語話者に対しては意味の伝達に齟齬を起こさないという点で有用であるが、日常の場面で外国人に対してこれを使うことに私は抵抗感がある。相手のバックグラウンドを無視して「お前はガイジンだ」というように相手を軽んじて扱っているように思えてしまうからだ。
話し方がたどたどしくても、日本に住んで長いのかもしれない。話すことはうまくないが、聞くだけなら普通にできるかもしれない。日本人だって英語はうまく話せないが聞くだけならかなり高度な内容を理解できる、ということは普通にあり得る。スピーキング能力とリスニング能力には差がある場合が多い。高いリスニング能力があるのに赤ちゃんに話しかけるような言葉を使われてしまうのは、対等に扱われていないと感じられるのではないか。
まずは普段通りの話し方で話しかけてから、相手の様子を探って話し方を調節するやり方の方が良いんじゃないかなと思う。
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●「〇〇(主題)、●●なんだよな…」という構文についての文法的考察
例:あのパン、好きでよく買っちゃうんだよな。
某漫画、キャラの掘り下げ方があんまり好きじゃないんだよな。
「○○、」と「●●なんだよな。」は別々に考察する。
・対比の「は」と主題化の「は」
この構文は「○○(は)、●●なんだよな。」というように、○○の後の「は」が省略されていると考えられる。
しかし、「○○、●●なんだよな。」と「○○は、●●なんだよな。」という形では同じ文の意味をあらわさない。
後者は○○以外のものについて暗に言及しているようなニュアンスが入ってしまう。
これはどういうことか??
「○○は、●●なんだよな。」の「は」は、多くの物事から何か一つを区別して提示し、何かと対比させる、対比のとりたて助詞である。
例:中央食堂の定食は、美味しいんだよな。(それ以外に美味しくない食堂がある?)
リビングは、きれいなんだよな。(それ以外の部屋は汚い?)
もう一つ、「は」には主題化の「は」というものがある。
文の中にある要素の中で話題にしたいものは前に持ってきて「は」をつけて提示する。
「花子は昨日カフェで紅茶を飲んだ。」〈花子〉
「カフェでは昨日花子が紅茶を飲んだ。」〈カフェ〉
「紅茶は花子が昨日カフェで飲んだ。」〈紅茶〉
この主題化の「は」には、一度ピリオドがついて文章が終わってもその後の文章にも影響するという特徴がある。
例:吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。(すべて主語は吾輩)
なんだよな構文には何か他の物の存在を暗に提示し比較するという意図はない。
つまり、なんだよな構文の「○○、」は、「○○は、」の中の主題化の「は」を省略したものである。
主題化の「は」の持つピリオド越えの特徴によって、最初に主題を提示した後比較的自由に文章を展開できるから、「○○、」が好まれるのではないか。
なんだよな構文において「は」を省略するのは、対比のとりたて表現として解釈される可能性を消すためではないか。
・「なんだよな…」のモダリティ
「〇〇は、●●だ。/●●のはずだ。/●●かもしれない。」と同じように使えることから、
「●●なんだよな。」はモダリティを持つ表現の一つだと考えられる。
「〇〇について私はこう思った。/ああ、でもこれは私がこう思ったってだけだから、あなたにもそう思ってもらうことを強要しているわけではないよ…あと個人の感想だからもし間違っていても許してほしいし、もちろんあなたの考えとは違っていても攻撃したりとかしないでね。」
断定+詠嘆+濁しのモダリティだろうか?
この文章を読んでいる人への同意の押し付けにならないようにとか、予防線を張れるようにとか。
文末に加えるだけでインターネット上で情報発信するときに角が立たなくするためのニュアンスが追加できるので、毎回これを使いたくなってしまう。この人類皆発信時代におけるインターネット上での情報の在り方に合わせて生まれてきた表現なのかなと思う。
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今年48歳になる山際正己さんは、18歳から「やまなみ工房」へ通っている。炊事や洗濯、古紙回収など毎日同じ時間に同じ流れで暮らす中で、机に向かい「よう頑張ったな、日本一やな」と自分を大声で励ましながら、10cm程の土人形「正己地蔵」をつくっている。これまで30年以上かけて数十万体以上を制作。 pic.twitter.com/G2KGKDSIbB
— 櫛野展正📕新刊「超老芸術」 (@kushinon) 2020年9月26日
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久しぶりにまた外に出るのがきつい時期が来ました。
目が覚めるとまた今日も生きなければいけないのかと思って悲しくなりますし、
夜布団の中にいるときはまた今日も死ねなかったと思って悲しくなります。