ただ、いっさいは過ぎていきます
好きな曲の話がしたすぎて一日に二回更新しました。
水曜日の本と同じくらい好きな曲があるのです。
Antônio Carlos Jobimの「Águas de Março」(三月の水)です。
私はパッヘルベルのカノンのように、ルート音(コードの中で一番低い音)が階段状に下っていく曲調に弱いです。強制的に、「ただ、いっさいは過ぎていきます。」のムードにさせられます。「現在」が無限長の時間の中に放り出され、強制的にすべてが永遠の相の下に置かれる感覚です。マインドフルネス効果があります。
人気作である三月の水には多くのバージョン違いがあります。ブラジルで高く評価されている、女性と歌っているバージョンと、ソロ歌唱だが伴奏が華やかなボサノヴァのバージョンなど。
その中でもこれは最も地味なバージョンです。作曲者の歌唱であり、伴奏もシンプルです。後半の掛け合いパートもありません。
ブラジルの感性では華やかなものが好まれるのでしょうが、私は最低限の人数で演奏することで孤独と向き合っている(ように聞こえる)このバージョンが好きです。陰キャらしい感性かもしれません。
この曲は、あるSCPを紹介する動画の中でエンディングとして使われていたことで知りました。
「SCP-2737 一匹の死んだヤツメウナギ」
このオブジェクトは古代ローマ風のツボに入った一匹のヤツメウナギの死体です。死骸を見た人は「死」について考えることに取り憑かれ、大鬱病性障害になってしまいます。しかし時間が経つにつれ「いずれは死ぬという事」に対して向き合い、絶望から立ち直ります。このSCPは死について考える機会を与えるだけのオブジェクトです。
死について考えることと、無限長の時間に自分を置いてみることは同じだと思います。
三月の雨の歌詞はほぼ名詞で構成されていて、目に映るものを次々と描写していく写実主義的な詩です。
人間が感じる「今」というものは確かにありますが、同時にそれは宇宙単位のマクロな時間に包摂されてもいます。自分が存在する前やいなくなった後にも三月の水は流れていたし、流れていくことでしょう。そのことを想像すると、今自分が感じている苦しみや悲しみも大したことないように思えるのです。そうして日常を淡々と送ることに戻っていくのです。
Águas de Março - ボサノヴァ日本語化計画 (hiyokomame.com)
私はポルトガル語が分からないので他の人の訳を引っ張ってくるしかないのですが…